読んではいけない?!『論語』

ドクトルふぁん

2011年05月16日 12:52

かつて、酒見賢一『陋巷に在り』を読み、
古代中国におけるおどろおどろしくも妖艶な
呪術の世界にはまった。
同時に、孔子以前の儒教と以後のそれとが
まったく異なるものであったらしいことがわかった。

小説は異才顔淵を中心に描かれており、
むしろ孔子の俗っぽさが印象深かった。
しかし、儒教の祖としての後世への影響力を考えると、
孔子の非凡さは明らかだ。

今回、加藤徹氏の『本当は危ない『論語』』を読んだ。
本来は京劇など中国近世文学を専門とする加藤氏ではあるが、
西太后についても著作を出すなど、幅広くも奥深い
教養をそなえた学者だ。以前、東アジア研究の関係でお会いした
ことがあるが、気さくで飾らない人柄でもある。

さて、加藤氏は本書で、これまでの類書とは
異なり、論語の内容自体というよりは、論語の
形成から、解釈をめぐる議論、日本での受容の
され方など、論語を取り巻く東アジア文化史
ともいうべき視角から叙述している。

中国で儒教が国教となったのは漢代だが、
論語は経典ですらなく、ランク外の雑書扱いだった。
そんな論語が経典になるのが宋代である。

加藤氏は論語が古代性の強い書物であることを
さかんに強調している。つまり、後世の人による
読み方や解釈と当時の読み方と原意とが離れて
いて当然だという地点からスタートする。

我々日本人は読み下しで論語を一応は読める。
しかし、今一つ、意味内容がしっくりこない。
それは、「擬音感」という決定的なスパイスに
欠いているからだという。

例えば、「ぺちゃくちゃ」しゃべる、「ジー」と
見つめる。といった言葉がそれだ。
論語には「礼」によって、人間同士がなめらかに
結び付くイメージと師に対してもガツンとぶつかる
主体としての「我」が含まれているという。
従来の学者は論語の音感について叙述する
ことはなかったが、加藤氏は大胆に孔子の
肉声に迫ろうとしている。

さて、なぜ論語は読むと危ないのか?
それは論語は革命を容認する思想を
含んでいるからである。古代中国では
「易姓革命」、すなわち、民を苦しめるなど
政治を乱した者は天命を受けた者によって
滅ぼされ、姓がかわるというものがあった。

日本をはじめ、東アジアの国々は論語を
受容はしたが、論語の革命肯定思想には
警戒してきたという。

そんな中、日本では江戸時代に鎖国を行い、
幕末志士のパワーの源になった可能性があるという。

1837年の大塩平八郎の乱は日本史上、志縁集団
としての「師弟カルト集団」が体制に挑戦した
最初の事件だった。
幕府が腐敗して民衆の生活を省みないことに怒り、
職を辞し、私塾の師弟たちに軍事教練を行った。
天下のために立ち上がったのだ。革命である。

そして、日本を変えたのがもう一つの志縁「カルト
集団」松下村塾だ。
日本の近現代を見ると、論語から大きく影響受けた。
西郷隆盛、渋沢永一…。
戦後日本が体制的にも思想的にもアメリカの
影響を強く受けるようになる以前、教養と
言えば、中国の古典であった。論語はその中でも
多様な読み方ができる書物である。

孔子の時代から現代の東アジアまでを
視野に入れた豊穣な作品である。





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